戦前に撮影された16_フィルムをデータ化しました。 撮影は、故入来重弘先輩です。

この撮影の後、 1940年(昭和15年)8月13日前穂北尾根四峰で遭難死されました。

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撮影年・月 時間 タイトル 参加部員
1939年(昭和14年)12月 8分14秒 志賀高原 熊の湯 スキー合宿  
1940年(昭和15年)01月 9分38秒 穂高・岳沢から槍ヶ岳への極地法による生活(失敗)   
1940年(昭和15年)03月 16分55秒 岳川谷(岳沢)〜天狗のコル〜奥穂〜北穂〜槍

目的
極地法による槍往復

行動
ベースキャンプ 岳沢
〜第1キャンプ 天狗のコル
〜第2キャンプ 穂高小屋
〜第3キャンプ 北穂高
〜第4キャンプ 槍ヶ岳を往復

期間
1940年3月15日〜4月2日

各係
器具係 川西岩夫、富沢潤之助
食料係 
野田福五郎坂省三
記録係 入来重弘
会計係 上関俊也澤田道夫

CL 佐藤耕三
崎田熙
南豊
眞島恒雄
野田福五郎

川西富夫
富沢潤之助
入来重弘
坂省三

上関俊也
澤田道夫
遠藤二郎
林邦基
石垣克己
三田貞夫

藤田達夫
神保琢磨
金徳熙
ガイド 高松重一
(以上20名)


日本大学山岳部八十年の歩み』より抜粋

1938(昭和13)〜1941(昭和16)年
佐藤耕三の入部

 この頃の山岳部には、戦後の山岳部の復興に尽力された部員も多かった。古河正文、窪田宗英、河内邦介、篠田則良、千谷荘之助、津村利男、長岡道男、前田一二、松代正三、菊池典男、福武義夫、置塩光、鞍田昌彦、笹本正剛、土屋秀夫、真島恒雄、富沢潤之助、野田福五郎、藤田達夫、田中昇、新田業、村田顕、松井正、その他枚挙に暇がない。

 1938(昭和13)年になって、大阪薬専 (私立の大阪薬学専門学校、後に大阪大学医学部薬学科に吸収合併)を卒業した佐藤耕三が三崎町の商学部に入ってきた。彼は山の経験も豊富で、関西の登山界では知られたクライマーであったこともあり、部員も大きな刺激を受け、教えられることも多かった。ややもすれば、長年同じ場所で純粋培養になりがちであった部員は、さらに切磋琢磨するようになった。

 1939(昭和14)年12月には神山をリーダーとして天狗のコルから槍までの極地法登山を実施したが、この冬は例年に見られない悪天候の連続で、C1予定地の天狗のコルにも登れず失敗に終わった。

 そこで、年が変わって三ヶ月後の1940(昭和15)年3月15日〜4月2日にかけて、佐藤耕三リーダー以下20名が同ルートで再挙を図り、極地法により岳川谷BC〜天狗のコル〜奥穂〜北穂〜槍を余裕をもって成功した。この成功により部員の 志気も大いに高まった。

 リーダーの佐藤は“我々の行った登山は、大きな山を仮想しての訓練というような意味ではなく、最も安全確実に穂高を経由して槍ヶ岳を登るための手段に過ぎず、そこには一点の無理もない、団体的な強大な闘志がひそんでいたことを見逃すことは出来ない”と述べている。

 佐藤は、その余勢を馳って薬専時代から狙っていた、当時未登攀であった不帰二峰東面バットレスの登攀に出かけている。メンバーは石田克己、平野数雄、(後に本片山と改姓)神保琢磨の4名、出発は穂高生活から帰京して1ヶ月もたたない4月29日。5月2日、登攀にかかった。晩春とはいえ雪は多く登攀は予想より時間がかかり、途中でビバークとなり、アイゼンを着けたまま、その上ザイルでビレーして一夜を明かしている。翌5月3日、二峰頂上を踏み、初登攀を成しとげた。その後、このルートは、不帰岳周辺の登山史を調べている独標登行会によって、「不帰二峰東面バットレス日大ルート」として、初登攀が認知されている。

 しかし、それから四ヶ月後の1940年8月13日に穂高夏山生活終了後の第二次奥又白合宿中、前穂四峰壁で将来を嘱望されていた入来重弘、上関徹也の両部員を転落事故で失ったことは痛恨の極みであった。

 当時の部の状況について1941年卒のCL崎田熙は“その頃戦争は迫っていたが、それ程切迫感もなく、山にはよく出かけていた。日大山岳部としての部室はなかったが、神田神保町の交差点の角から二件目にあった「万崎」デパートの四階にある食堂によく集まっていた。というのはその食堂の一角に、十畳ほどの部屋があり、その部屋をいつのまにか山岳部が占領して集まっていたのである。場所もよく、食事も出来るので大変便利だった。ここに行けば必ず山岳部の誰かがいるという具合で、ここが山岳部の部室代わりになっていた”と述べている。

 一方、器具、装備類は、工学部の駿河台校舎の廊下の突き当たりの大きな木箱に収納していた。

 翌春の春山合宿は1941(昭和16)年3月17日〜4月5日、豪雪で知られる東北の飯豊山で行われた。リーダー崎田熙以下18名は、福島県側の小荒集落の猪俣政次郎宅に宿泊して荷物の仕分けを行い、極地法でキャンプを進めたが、何にしおう豪雪地帯、その上、連日の悪天候で思うようにキャンプは進められず、C3から大日岳頂上に達するのが精一杯で、時間切れのため下山することになった。

 

以下、市大山岳会ニュース bS (平成3年4月1日発行)「銅板碑の人々(後編)三島義彦」より引用させていただきました。

佐藤耕三  大薬専 昭64.4.11逝去。大薬専から、山へ行く為と徴兵猶予を願って日大へ。坊の主と自称し日大ではインさん(印)と呼ばれる。市大山岳会会友。福田源五郎氏遭難の時も日大北尾根アクシデントの時も同行。多く友人を山で、病で亡くし、その菩提を弔い正信偈を唱え、般若心経を唱える有徳の人。

ランタンの時はJACの委員金坂一郎氏、松田雄一氏等への招介を始め多くの力ぞえをいただく。昭46年前田光男氏がランタンで亡くなられた時は、遺骨受領にカトマンズに行く。よく世話をし、助けられたので宮原巍氏はか彼の応援を受けた人多しと聞く。アルコールonlyのアルコール好き。逸話多い。昭63年6月既に自覚していられた身休の不調をおして銅板碑に参られたのが最後となる。昭15年北尾根で遭難された友の50回忌をまつり 責を果たしたいと言って準備していられたのに、遂に体力の衰えから9月のお祭りに参列できなかったことは心残りだったろう。この碑は慶応パノラマルート入口近くにあり、彼の筆になる。深信院釈耕道。